食べたケーキ、落ちたケーキ

by N. ショートショート小説 0 min read

 その場所は、永遠の微睡(まどろみ)が支配する、天使たちの領土であった。
 
 人智を超えたこの聖域において、天使たちは時を支配する。彼らの頭上に浮かぶ「輪」は、単なる権威の象徴ではない。それは時空の奔流を切り裂き、過去から未来へと漕ぎ進むための、精緻な航行装置である。
 
 なぜ天使たちは、どの時代を訪れても変わらぬ姿で現れるのか。それは、人類の進化が「羽」の獲得に到達したからだ。遥か未来、人類は肉体に羽を宿し、自ら時空を跳躍する能力を獲得する。天使とは、その進化の極致に達し、現在をあえて「永遠の微睡」へと隔離した、未来からの来訪者(あるいは先駆者)なのである。

 そんな、時空の理(ことわり)が書き換えられた神域に、一柱の「奇跡」とも呼ぶべきケーキが置かれていた。
 
 それは、雲の切れ端を掬い取ったかのようなフワフワのムースで幾重にも装飾され、周囲には天上の庭園を思わせる、甘く芳醇な果実の香りが霧のように漂っている。それは、時間から隔離された純粋な「美」の結晶であった。

 甘美なものに心奪われる一人の男が、この神域の逸品を手にした。
 視線を注ぐだけで、彼の唾液腺は狂おしく疼く。フルーツケーキのような重厚な芳醇さと、ショートケーキのような儚い口当たり。それを想像しただけで、彼の魂は天上の旋律に導かれるように高鳴った。

 しかし、運命は残酷な悪戯を好む。
 男は、その至福を口にするよりも早く、不覚にもケーキを掌から滑り落としてしまった。

 嗚呼、なんてことだ。

 ケーキは無残にも、聖域の片隅にある泥濘(ぬかるみ)へと沈み込んだ。それは瞬く間に、通行人の無慈悲な靴底に踏みにじられ、野良犬の体臭を含んだ尿を浴び、さらに追い打ちをかけるように、空から鳥の糞が毒のように降り注ぐ。
 高貴な逸品は、見るも無惨な「汚物」へと成り果てた。

 男は絶望の淵で、魂が凍りつくような衝撃を受けた。
 だが、その絶望の深淵で、男の脳裏に閃光が走る。

「そうだ、時間を遡ればいい……!」

 幸いにも、この世界を司る天使たちは、時間の理(ことわり)を操る術式を心得ている。
 男はケーキを救い出すため、禁忌に近い「時間遡上」を強行した。
 空間が悲鳴を上げ、因果の糸が逆方向に巻き戻る。世界を彩るカラーが反転し、その構造が歪み始める。

 この世界において「時間」とは、そもそも存在しない虚像に過ぎない。
 我々が「進んでいる」と錯覚している時間は、重力によって歪められた時空の螺旋階段なのだ。我々はただ、その階段を下から上へと這い上がるように歩んでいるに過ぎない。しかし、その螺旋を貫けば、過去へは一直線に突き抜けることができる。

 だが、その一撃に必要な重力を発生させる時、世界は耐えきれず分裂する。それがパラレル化――因果の断層である。

 時間遡上とは、この螺旋を貫き、僅かな過去へと因果を退行させ、そこから時空間を分岐させる秘術だ。
 男はケーキが墜落する直前の、あの刹那へと舞い戻り、見事な手つきでその落下を阻止した。

 しかし、この時、彼が立っているのは「ケーキが落ちた」時空間とは異なる、別の「ケーキが落ちていない」時空間である。
 男の介入によって、世界は二つに分かたれた。
 ケーキが泥に沈み、汚辱にまみれた世界。
 そして、男の手の中で無事に守られたケーキが存在する世界。
 この二つの時間軸(タイムライン)は、並列に存在する「パラレルワールド」として固定される。

 しかし、パラレルワールドには「元の状態」へ回帰しようとする強力な復元力が働いている。分岐点に近いほど、その収束への圧力は強大となる。

 男は焦燥に駆られ、狂ったようにケーキを平らげた。
 甘く柔らかなクリームが喉を滑り、彼は至上の悦びに浸る。
 だが、並列化した時空間は猛烈な勢いで収束を開始した。
 ケーキが落ちた世界と、ケーキを食べた世界。二つの事実は、物理的な法則を無視して強引に「統合」されていく。
 世界は矛盾を許容できず、どちらか一方の事実に強制的な上書きを開始した。

 果たして、そこに存在するのは――。

 泥にまみれ、犬の尿を浴び、鳥の糞を被ったはずのケーキが、男の腹の奥へとすっかり収まっているという、悪夢のような光景であった。
 それは、神聖な空間への冒涜であり、物理法則への反逆であった。

 少なくとも、男の記憶の中ではそうであった。
 男が恐る恐る、震える舌で口の中をまさぐると、ジャリッとした砂のような異物が歯の間に挟まる感触が伝わった。
 同時に、犬の尿の強烈なアンモニア臭と、鳥の糞の鼻を突く酸味が、爆発的な勢いで口腔内に溢れ出した。

 二つの世界が物理的に融合したため、ケーキに付着した汚れも、尿も、糞も、あるいはその混合物も、等しく男の体内に取り込まれたのである。
 たとえそれが半分であったとしても、グルメな甘党にとってそれは耐え難い冒涜であり、魂を削るような苦痛であった。

 男は嘔吐した。

 激しく嘔し、胃の内容物を吐き出した。
 口を拭い、鼻をすする。
 だが、拭っても拭っても、脳の芯までこびりつくような異臭が離れることはなかった。

 のたうち回る男を、通行人たちは怪訝そうに眺めるだけだった。
 彼らはパラレル化した双子の空間のいずれかに存在していても、同じ行動を繰り返していたため、世界の断層など知る由もない。

 強いて言えば、この男を凝視していた者だけは、落ちたケーキを嘆く男と、狂ったようにケーキを食べる男が、幻影のようにブレて重なり合って見えたかもしれない。

 周囲の人間は変わらぬ平穏を歩み、男だけが、分岐した時間での行為とその無惨な報いを受け取っている。
 統合された結果、男の腹の中や記憶がどう変質したのかは、ただの通行人には知る由もない。

 ――まさに、神のみぞ知ることであった。

原作:小噺『食べたケーキ、落ちたケーキ』(天使のわすれものより)