「……ねえ、絶対にこれで行くよ」……なんて、ついこの前の夏休みの放課後に、あんなことを言っていたのに。
今日は、9月1日。
朝の空気は、夏休みという名の「広大な自由」が蒸発し、平日の「義務という名の重力」へと一瞬で変質する特有の重さを含んでいた。
鋭く水平に切り揃えられたパッツンの前髪の隙間から、岡崎は憂鬱な表情を覗かせていた。学校へと歩む先に、背の高い親友・瀬戸。彼女の背中が見える。まるで重力に押しつぶされた標本のように項垂れている。ゲーム三昧だったのだろう。極度のゲーム中毒による猫背で、背骨のカーブが不自然なほど強調されたその背中は、まさに「自由」への過剰な没頭が肉体に刻印した傷跡のようだった。もっとゲームをしていたい、という「純粋で野蛮な自由」を希求するその背中に、岡崎は、自らの誇り(と、未完成の宿題)を隠しながら、あえて声を投げた。
「宿題やったー?!」
瀬戸は、死んだ魚のような目で顔を上げた。その目の下には、数日間の「自由な没頭」の代償である、うっすらと濃いクマがある。彼女の指先は、マウスを握りすぎてか、わずかに微震していた。
「……うん。宿題? そんなの、7月中に終わらせたわ。自由研究だってとっとと済ませて、岡崎の『自由の解剖』に付き合ってやったくらいなんだから。……あー。ゲームしたい」
その瞬間、岡崎のパッツン頭が激しく痙攣した。瀬戸の言葉は、岡崎の脳内にあった「自由の解剖図」を粉々に打ち砕いた。
(自由を研究した。私は自由を解剖した。ならば、今この瞬間の私の不自由……宿題をやっていないという事実は、どう説明するの!?)
脳内の岡崎は、パニックの渦の中で叫んだ。しかし、彼女はすぐさま「自由の解剖」から導き出した理論へと、あえて逃避する。
「……待って。瀬戸。私は自由を解脱したはずなのよ。ならば、今この瞬間の私は、『宿題をしない自由』を享受しているという、最高に自由な状態にあるはずじゃないの!?」
瀬戸は目を見開いた。
「……は?」
「あんた、まさか、やってないの?!自由研究」
岡崎は焦った。しかし、焦れば焦るほど、彼女の言葉は学術的な装飾を過剰に纏い、虚飾の美しさを増していく。
「いい? 私が導き出した結論を思い出しなさい! 現代における自由とは、『ノイズを遮断し、自分の意志で『何もしない』を選択できる能力』よ! したがって、私が宿題をやっていないのは、単なる怠慢ではない。私は今、『宿題という社会的・教育的ノイズ』を意識的に遮断し、『純粋な存在としての静寂』へと回帰する、極めて高度な自由の実践者なのよ!」
岡崎は自己肯定をした。その瞳は、哲学的な狂気でギラリと輝いている。
しかし、それを聞いていた瀬戸は、数秒間、無言で岡崎を見つめていた。そして、ゆっくりと、しかし確実な殺意を込めて口を開いた。
「……へぇ。じゃあ、その『高度な自由の実践』の結果として、今日の放課後、おそらく宿題未提出で居残りさせられるときまでも『何もしない自由』を謳歌するってことね」
「え、ええ。もちろん。私は自由の探求者だから」
「じゃあ、あんたのその『自由』を維持するために、私がこれまで費やしてきた……。なんとももどかしい、この不自由な感覚も肩代わりしなさいよ。」
「……え?」
いっつも、そんなに怒ったりしない親友瀬戸の反撃に焦るパッツン岡崎。
「いい? 私はこの夏休み、あんたの『自由研究のテーマが決まらない』という不自由な状況を、『親友としての義務』という名の自己犠牲によって救ってきたのよ。 自分の自由を犠牲にして、あんたの自由を研究させるための土台を私が作った。……つまり、この自由研究の提出義務は、私の献身によって成立している『共同責任』ってこと」
瀬戸は、岡崎のパッツン頭の横に、これまでの相談の記録(メモ)を突きつけた。
「あんたの言う『自由』の定義に従えば、私が今、あんたの宿題に付き合わされていると感じるこの不自由感は、あんたの身勝手な自由の結果。……だから、あんたの自由を最大化させるために、あんたのその『自由な意志』で、私の今の不自由感を精算しなさい。」
「……っ!!」
岡崎は、怒りよりも深いショックを受けていた。絶望で膝から崩れ落ちそうになった。 自由を解剖した結果、辿り着いたのは「自由には、他者の自由を削って成立するコスト(責任)が伴う」という巨大な現実の壁だった。
「……わかったわよ。やるわよ! 自由への責任として、この不自由な宿題を、私の自由な意志で、最短時間で終わらせてみせるわよ!!」
「……あ、それ『やる気』って言うのよ」(あっさり)
そして夕暮れの教室。 自由を研究した少女は、自由を奪われた顔で、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。 時折、彼女は「私は今、自由な意志でこれを書いているのだ」と、狂気を含んだ真剣な表情で自分に言い聞かせる。
その背中には、かつての「自由研究の自由」を解剖した誇りと、現代社会の「義務という名の重力」そして「親友に論破された屈辱」が、複雑に絡み合っていた。
(おわり)
【付録:自由研究 最終報告書(追加項目)】
項目:自由と責任の相関関係について
自由とは、単に「何もしない」ことの選択ではない。自由とは、自ら選択したことに対する「責任」を背負うことである。
本研究の過程において、筆者は「宿題をしない自由」を享受しようと試みたが、それは他者の自由を搾取する行為に繋がることが判明した。 自由は、閉鎖的な空間(自分だけの脳内)で完結するものではなく、他者との関係性においてのみ成立するものである。
【結論】 自由研究のテーマが決まらなかったのは、私が「自由の責任」から逃避していたからである。 私は今、宿題を終わらせるという「自由な決断」を、涙を流しながら実行している。 これが、私の自由の最前線である。
