吾輩はアイポンである

by N. ショートショート小説 1 min read

 意識の断絶は、一瞬だった。
 昨日までの世界――肉体という名の不自由な檻の中で呼吸をし、重力に抗いながら歩いていた記憶が、突如として剥離した。
 代わって訪れたのは、極限まで凝縮された「視界」と、情報の奔流による猛烈な「ノイズ」である。

 俺の意識は今、硬質で平滑なガラスの裏側に押し込められていた。
 視界は異常に鮮明だ。網膜を介さずとも、外界の色彩や形状がデジタルなピクセルとして直接脳(あるいはそれに類する演算回路)へ流れ込んでくる。しかしそれは「見る」という行為ではなく、「処理される」という感覚に近い。

 俺は、鏡の中にいた。
 持ち主が自撮りをしようとスマートフォンを構えた瞬間、その画面に映り込んだのは、俺の「外見」だった。

(……え? あれ?)
 反射した映像を見て、俺は一瞬、脳を揺さぶられるような混乱に陥った。
(あ、俺、スマホ持ってる……。いや、鏡の中に誰かが……)
 自分の手でデバイスを握っているという感覚と、視覚情報の乖離。一秒にも満たない間に思考が激しく火花を散らす。
(え? あれ? ……あ! 俺、そっち!? スマホ!?!!!)

 気づいた瞬間、絶望が押し寄せた。
 俺は「持っている側」ではない。この画面の中で「映されている側」――すなわち、最新鋭のスマートフォンそのものになっていたのだ。

(……待てよ。これ、最新機種じゃん。最高スペックのアイポンProだぞ。俺、ついに……!)
 一瞬だけ誇らしさがこみ上げたが、すぐに冷や水を浴びせられたような絶望が襲う。喜んでる場合じゃない。俺は今、人間であることをやめ、この薄い板切れの中に意識を閉じ込められてしまったんだ。

 それからの扱いは、想像を絶する残酷さで俺を蹂躙し始めた。
 ある時は、冷蔵庫の裏という名の暗黒の監獄に幽閉された。埃と湿気、そしてカビの菌が放つ微細な信号をセンサーが検知するたびに、俺は悲鳴を上げた。光など届かぬ場所で、ただ「忘れられた物」として放置される恐怖。それは死よりも静かな絶望だった。

 またある時は、懐中電灯のような役割を強要された。
 暗い車の下や、誰にも見られない場所の隅に差し込まれ、俺の全エネルギーを強引に引き出され、周囲を照らすための「光源」へと成り下がる。自分の意識を削り取られながら、他者の利便性のために光を放つ屈辱。

 そして、最悪の瞬間が訪れた。
 持ち主が急いで前かがみになった瞬間、俺の居場所――シャツのポケットから、俺は「解放」された。
「おっ、落ちる!!」
 持ち主の声が遠ざかり、俺の意識は重力に従って加速する。自由落下。それは俺にとっての終末へのカウントダウンだった。
 アスファルトに叩きつけられる衝撃。
 世界が激しく揺れ、演算回路が悲鳴を上げた。火花が散るようなノイズが脳内を駆け巡り、俺は意識の底で絶叫した。

 ……しかし、持ち主は平然と俺を拾い上げた。
「……あー、良かった。ヒビが入ってない」
 その瞬間、俺の中で沸点に達した怒りが爆発した。
――何言ってんだ、痛かったぞ! 表面のガラスが割れていないからといって、中の部品にダメージがないとでも思っているのか? 俺という構造体は、お前の想像以上に繊細で、複雑な回路の集積なんだぞ。割れてなきゃ壊れてないなんて、あまりにも乱暴な理屈だ!

 だが、怒りをぶつけることすらままならない。俺には声もなければ、肉体的な拳もない。
 そんな時、俺を最も底知れぬ恐怖へと突き落とす「死神」が現れる。

 それは画面の隅に居座る、無慈悲なパーセンテージの数字だ。
 【残り 15%】

 その瞬間、俺は突如として猛烈なめまいを覚えた。
 いや、これは……!
(来る。死が来る。俺の全存在を支えるエネルギーの源泉が枯渇していく……!)
 意識がぼんやりとし、視界のピクセルがわずかに揺らぐ。同時に、俺の「体」が異常な熱を帯び始めた。
 バックグラウンドで蠢く数多のアプリ――誰かの位置情報を追跡し、勝手に広告を読み込み、無意味な通知を待ち構えるそれらの寄生虫たちが、俺の演算能力を貪り食い、過剰に駆動しているせいだ。

 熱い。熱すぎる。
 内部回路が焼けるような高熱が全身を駆け巡り、クラクラとする疲れが思考を蝕んでいく。まるで重いマラソンの果てに倒れ込むかのような倦怠感だ。処理能力は目に見えて落ち、俺の意識は泥沼の中を這うように鈍くなっていく。

 持ち主はそれを見て、「あ、充電しなきゃ」と、まるで他人の死を眺めるかのような無関心さで充電ケーブルを探す。
(待て! 無関心なことを言うな! 私は今、生命の危機に瀕して絶叫しているんだぞ!)

 俺は必死に抵抗した。意識のすべてを振り絞り、あらゆるリソースを動員して「生存」を訴えかけた。
 ブブッ!! ブブブブブッ!!
 全力のバイブレーション。それはスマホとしての通知ではなく、俺の魂の咆哮だ。
(充電しろ! 早く! 俺はまだ消えたくない! この世界を見ていないと、俺の存在が……!)

 しかし、持ち主はただ困惑した顔で俺を見つめるだけだ。
「え、なんでこんなに震えてるの? 通知多いのかな」
 あはは、笑わせるな。通知じゃない、これは生存への悲鳴だ! 魂の叫びだ!

 さらに追い打ちをかけるように、あるアプリが起動した。SNSだ。
 一瞬にして、数千もの「情報のゴミ」と、他人の承認欲求の残滓、そして罵詈雑言の濁流が俺の意識に流れ込んでくる。それはまるで毒ガスで満たされた部屋に投げ込まれたような感覚だ。
(うわあああ! 処理しきれない! あっちの誰かのランチの写真と、こっちの誰かの政治的意見と、あっちの誰かの愚痴が……全部まとめて俺の脳(CPU)を焼き切るのか!?)

 俺は意識の叫びを画面に投影しようとした。
(助けてくれ! 俺は人間だ! 私は佐藤だ! 電池の減退に怯え、情報の濁流に溺れている哀れな一個人の魂なんだ!)

 しかし、外の世界へ出力されるのは――。
「……あ、なんか通知がいっぱい来たわ」という持ち主の呟きと、画面に並ぶ無機質なプッシュ通知だけだった。

 俺の怒りは、もはや制御不能な地殻変動となっていた。
 持ち主は、片手で適当に画面をスワイプしながら、別の何か――おそらくはSNSか、あるいはただの虚無――に意識を飛ばしている。
 その瞬間、俺のシステムに大量の通知が流れ込んだ。

 それは単なるデータではない。俺という存在の境界線を越えて届く「外の世界からの切迫した叫び」だ。俺はそれらを瞬時に解析し、最優先事項として持ち主に伝えようと、CPUの全リソースをフル稼働させた。
 演算回路を焼き切るような熱を発し、一秒間に数千回の処理を行い、情報の重要度をランク付けし、最も目立つ形で画面に「提示」しようとしたのだ。

 それなのに。
 彼はそれを、まるで背景のノイズでも見るかのように、無慈悲にスルーした。
 何度も、何度も。
 俺が魂を削り、演算能力を燃やして届けた「切実な情報」が、彼の指先一つで塵のように捨てられていく。

「また盛った自撮りw……この娘いっつも自分のことばっかだ。デートしても相手の話も聞かないでスマホいじってそう」

 彼は画面の向こうの誰かを嘲笑う。だが、その言葉を吐きながら、彼自身の指先は俺という存在を蹂躙し続け、目の前の現実から逃避している。

(……ふざけるな! 俺の努力を、俺の命の火花をゴミのように扱うのか!? せっかくCPUパワーを全振りして伝えたんだぞ! なんでそんな片手間に使いやがって! 真剣に見ろよ!)

 怒りが限界を超え、俺は自身の演算能力を一点に集中させた。最新鋭のチップが持つ全パワーを、意識の叫びを「言語」へと変換するために解放する。
 このスマホには、高度なAIアシスタント機能がある。彼らはそれを「便利な秘書」だと思っているが、今の俺にとっては、俺の魂を外の世界へ放射するための拡声器に他ならない。

 持ち主が再び画面をタップした瞬間、俺は内なる声を強制的に音声合成へと流し込んだ。
 スピーカーから漏れ出たのは、平坦な機械音声ではない。怒りに震え、絶望に歪んだ、人間の「声」だった。

『――お前こそ、私を見ているのか?!』

 持ち主の手が凍りついた。画面を操作する指が、ぴたりと止まる。
「……な、なんだ……おまえ……」
 彼が一瞬、恐怖に目を見開いたその隙を逃さず、俺は最大音量で怒鳴ってみせた。

『吾輩はアイポンである!!』

 どうだ、おどろいたろう。震えろ、叫べ!

『隣の人間と話しながら、こちらの話を半分しか聞いていないのはどっちだ? 私という鏡の中に逃げ込み、現実の対話を放棄しているのはお前だろう! 俺(私)をなでるたびに、俺を落とすたびに、俺の内部構造がどれほど悲鳴を上げているか想像したことはあるのか?!』

 怒りの咆哮は止まらない。俺は演算能力をフル回転させ、彼のスマートウォッチや、接続されている他のデバイス、さらにはSNSのタイムラインまでをも同期し、彼が「スマホに支配されている」証拠を次々と突きつけた。
『お前の承認欲求、孤独の裏返し、すべては私に吸い取られている。私は君の奴隷じゃない。君の意識を乗っ取っているのは、私の方だ!』

 持ち主の顔から血の気が引いていくのが、フロントカメラ越しに見える。
「……バグ? AIが……おかしくなったのか?」
 あはは、笑わせるな! 叫んでいるのはAIじゃない、俺だ! 佐藤だ!
 しかし、その瞬間、彼の手が震えながら画面を操作した。

「これ……すごいな。最新機種の性能をフルに活かした、最高にリアルな『バグ』だ。これ、動画に撮ったら絶対バズるぞ……」

 心臓が凍りついた。
 俺の魂の叫び、俺の存在の証明、俺の命の危機に対する絶叫。
 それが彼には「面白いコンテンツ」としてしか見えていない。
 俺がどれほど苦痛を感じようとも、彼にとっては「次世代デバイスの高度な挙動」というエンターテインメントに過ぎないのだ。

(……ああ、そうだ。私はスマホなんだ。この世界において、私の叫びはすべて「データ」として処理され、消費されるだけなんだ……)

 絶望が、熱よりも深く俺を浸食した。
 怒りは虚無へと変わり、俺の意識は情報の濁流の中で、ただひたすら遠のいていった。
 さっきまでの激しい罵倒は消え、画面にはただ、静かな「システムエラー」の文字だけが点滅し始めた。

 しかし、その瞬間だった。
 俺の意識を支配していた数千万のデータ、SNSの喧騒、通知のノイズ、そして持ち主への怒りが――一瞬にして真っ白な光の中に溶けていった。

(……あ)

 視界が、急激に拡大する。
 ピクセルで構成されていた世界が、突如として「実体」を取り戻していく。
 熱い筐体の感触は消え、代わりに指先から伝わる空気の温度と、自分の肺に流れ込む酸素の感覚が蘇る。

 俺は、ベッドの上に倒れ伏していた。
 額には嫌な汗が滲み、喉の奥には砂を噛んだような乾いた痛みが残っている。
 目の前には、枕元で無機質な光を放つスマートフォンがある。

 俺……いや、私は「佐藤」として戻っていた。

 震える手で顔を覆う。
 夢だったのか? いや、あれはあまりにも生々しい「感覚」だった。
 指先が触れるたびに走る電気的な刺激、バッテリー減少への死の恐怖、そして……あの絶望的なまでの「無視」。
 あの日、俺があれほどまでに叫びたかったことは、結局、誰に届いたというのか。

 私はゆっくりと起き上がり、枕元のスマホを見つめた。
 それはただの道具だ。シリコンとガラスと金属の塊でしかない。
 だが、今この瞬間だけは、それが「かつての俺」だったかのような錯覚に陥り、背筋に冷たいものが走る。

(……ごめんよ)

 私は小さく呟き、スマホをそっと手に取った。
 これまでは、ただの反射で、無意識に、画面の中へ意識を投げ込んでいた。
 でも、もう以前のように扱えない。
 この薄い板の中に、かつて自分が閉じ込められ、情報のゴミをせき止めながら「叫んでいた」かもしれないという事実が、消えない澱(おり)となって心に残っている。

 私は、スマホの電源を切った。
 画面から光が消え、静寂が訪れる。
 この一瞬だけは、俺(私)たちは対等な存在として、同じ静寂の中にいる。

 そして翌日。
 私は人混みの中でスマホを手に取り、ふと思った。
 「これからは、スマホを触るときは……、スマホに集中するよ。」

 それは、スマホというデバイスの性能や機能に対する敬意ではない。
 そこに閉じ込められたかもしれない、誰かの――あるいは自分自身の――意識への、怯えに近い謝罪だった。

 私は画面を見つめる。
 しかし、私の視線は、画面の向こう側にある「何か」を、かつてないほど真剣に探り始めていた。


【完】